今回は思考のトレーニングに使えるユダヤ人に伝わる「ふたりの泥棒」という逸話をご紹介したいと思います。
石角 完爾さん著書「ユダヤ式why思考法」を参考にしています。
ユダヤ人てなんでそんなに優秀なの?
ユダヤ人は成功者やノーベル賞の授賞者が多く、頭脳が優秀な民族として知られています。
ユダヤ人には豊かな発想力があり、ユダヤ人が多く住むイスラエルには、多数のスタートアップ企業があります。
ベンチャー企業向けの株式市場として世界最大のナスダックでも、米国の次にイスラエルの企業が多く上場しているそうです。
なんでユダヤ人てそんなに優秀な人が多いんだろう・・・
これは、ユダヤ人が子供のころから家庭で行っている習慣が関係していると言われています。
ユダヤ人の両親は、子供が小さいころからたくさん質問をして、子供と一緒に議論をします。
この習慣によってユダヤ人は思考力が高められて、柔軟な発想力を生んでいると言われています。
大人になってからいきなり「議論してください」と言われても、なかなかできないですよね。
そもそも自分の意見を発表すること自体が難しい・・・。
議論ができるようにするには、思考力を高めるトレーニングを子供のころからしておくことが重要みたいです。
このトレーニングが思考力を高め、柔軟な発想を生むことに繋がるそうです。
「ふたりの泥棒」のお話
この思考のトレーニングのために、ユダヤ人の家庭では、子どもにたくさんの説話を話しています。
今回はその中の、「ふたりの泥棒」のお話を紹介したいと思います。
ある日、煙突から居間にふたりの泥棒が入ってきた。
ひとりの顔はすすで真っ黒だった。もうひとりの泥棒の顔にはすすがついておらず、真っ白だった。
【問題】どちらの泥棒が顔を洗うだろうか?
「ユダヤ式why思考法」から抜粋
これはユダヤ人の両親が、小学生くらいの子供に説話と一緒に問いかける質問です。
泥棒のひとりは顔がすすで汚れていて、もうひとりは汚れていない。
この状況でどちらが顔を洗うだろうか、と言う問題です。
とても短いお話ですが、ユダヤ人の両親がこの逸話を子供に話して問題を出すことには、深い狙いがあるそうです。
それは、この逸話で子供に「認識」「事実」「真理」の違いを教えるということだそうです。
こんな短いお話が、そんな難しい話につながるの?
って思いますよね。
「認識」「事実」「真理」は、物事を見る次元によって異なってきます。
少し複雑な話に感じますが、子供と話す時にどのようにこの話を掘り下げていけばいいのか、会話の例を紹介していきます。
自分の顔は自分で見えない
どちらの泥棒が顔を洗うかな?
と質問すると、はじめは子供は
汚れている方が顔を洗うよ!
と言うと思います。
そこで、
いや、それは違うよ。物事には「認識」の違いがあるんだよ。
と教えてあげてください。
顔が汚れている泥棒は、顔が綺麗なままの泥棒を見ても、まさか自分の顔が汚れているとは思わないですよね。
一方で、顔が綺麗なままの泥棒は顔が汚れている泥棒を見て、「自分の顔も汚れているかもしれない」と思いますよね。
どちらの泥棒も自分の顔は見えないですが、相手の顔は見えます。
なので泥棒は、それぞれお互いの顔を見て、自分の顔の状態を想像するわけですね。
つまり、顔が汚れている泥棒は、「二人とも顔が綺麗」だと認識して、顔が綺麗な泥棒は「二人とも顔が汚れている」と認識していることになります。
この場合、どの角度から見るかによって、事実を受け止める認識が異なることがいえます。
そしてその「認識」は、必ずしも「事実」とは違うということになりますよね。
これっていろんな問題に対して言えることですよね。
一方から見たらこっちが正しいけど、相手から見ると全く違う事が正しいと思っていたり・・・。
では、どの角度から見れば、「ひとりの泥棒の顔は汚れていて、ひとりの泥棒の顔は汚れていない」という事実を正しく認識できるようになるのでしょうか。
それはふたりを外から見た時になります。
つまり「舞台を眺める観客のような立場」からだと、事実を正しく認識できるようになります。
第三者が客観的に見るっていう感じですね。
ここまでが「認識」と「事実」の問題で、ここからは「真理」の問題になります。
そもそもあり得る事?
ここまで話すと、子供は
じゃあ顔が綺麗な泥棒の方が顔を洗うんだね!
と言うと思います。
しかしまたここで、
それも違うよ。
そもそも同じ煙突を降りてきたのに、ひとりの顔が汚れていて、もう一人の顔が汚れていないということはあり得ないよね。
と子供に言います。
かなり意地悪な返答に聞こえますが、これがユダヤ人の両親が子供に思考力を付ける一つの方法としてしていることです。
ここから、「事実」と「真理」の問題に進みます。
「事実」が果たして「真理」なのかを見極めるためには、さらに違った次元から見る必要があります。
それが最後に指摘した点になります。
「そもそもふたりの泥棒は煙突から入ってきたのに、ひとりだけの泥棒の顔にすすがついて汚れているのは不自然だ」という見方です。
舞台で繰り広げられていることの不自然さ(「真理」)に気づくためには、観客を見る観客が必要になります。
そういった視点で問題を見ることで、「認識」や「事実」とは別に、「真理」が存在する可能性があることに気づきます。
ユダヤ人の両親は、この説話を子供に聞かせながら、「そもそもこの設定はおかしい。」と子供が疑問をもつこと、つまり問題の「真理」に気づくことを期待して質問するそうです。
このようにユダヤ人は逸話を使って、さまざまな視点から問題を見るトレーニングを小さいときから子供にしています。
「ふたりの泥棒」の話でいえば、
(1)泥棒がお互いの顔を見ている状態から、
(2)泥棒達を観客のように俯瞰してみる視点、さらに
(3)泥棒と観客を別次元から見つめる観客の観客の視点など、
さまざまな視点からこの問題について考えることになります。
小学生からこんな難しいこと考えさせているの?!
「頭の柔らかい子」に育つ
このような色々な視点から問題を見る訓練を、子供のころから続けていると
・視野が広くなる
・事実を自分の都合で認識しない
・同じ思考パターンに陥らない
・思い切った発想ができるようになる
というような柔軟な発想ができるようになるそうです。
つまり「頭が柔らかくなる」んですね。
自分が置かれた現状の常識や既成概念などにとらわれずに、自由に柔軟に発想することができるようになり、人生でさまざまな問題に直面した時に役立つ、「問題解決能力」を身に着けることに繋がるそうです。
子どもの人生にとってとっても大切な能力ですよね。
みなさんも、子供の発想力を伸ばすトレーニングで「ふたりの泥棒」のお話をしてみてください。